エッセイ

デモスの緩み、クラティアの歪み

デモクラシー(民主主義)の語源は、ギリシャ語の「デモクラティア(demokratia)」だという。民衆を意味する「デモス(demos)」と、権力を意味する「クラティア(kratia)」を結合した言葉である。

   経済格差の拡大や移民・難民の増加などにいら立ち、利己的で排他的なムードに傾く民衆。そうした負の感情をあおって権力を握り、独善的な政治に走る選良――。米国や欧州をはじめとする民主主義国家が直面するのは、デモスの緩みとクラティアの歪みが連動した複合危機と言ってもいい。

チャーチルの「鉄のカーテン」再び

米ミズーリ州フルトンのウエストミンスター大学を訪ねたことがある。「バルト海のシュチェチンからアドリア海のトリエステまで、欧州大陸を横断する鉄のカーテンが引かれた」。ウィンストン・チャーチル元英首相が1946年3月に演説し、米ソによる冷戦の到来を告げた場所を見ておきたかった。

 名宰相の彫像や博物館も忘れがたいが、ひときわ強く印象に残ったのは高さ3・4メートル、横幅9・8メートルの彫刻だ。芸術家のエドウィナ・サンディスさんが1989年11月に崩れたベルリンの壁を8枚並べ、男性と女性の形をくりぬいた作品「ブレークスルー(突破口)」。チャーチルの孫娘がゆかりの地に冷戦終結の記念碑を置き、民主主義と自由経済の勝利を祖父に伝えようとしたのである。

 そのサンディスさんが2019年5月、ウエストミンスター大学を訪れ、自身の作品を背にして演説した。「歴史は予想外の方法で皆さんを欺きます。何かをなし遂げたという安心感を植えつけたところで、醜い頭を再びもたげるのです」。いったん収まったはずの「寒さ」がぶり返したと話すサンディスさん。鉄のカーテンがまたも引かれそうだと、祖父に代わって訴えたかったのかもしれない。

蘇生する「東側」と消える「西側」

チャーチルが生きていれば、21世紀の世界にどんな警告を発するのだろうか。

 米ソによる冷戦は米中による新冷戦に取って代わられ、2大国の覇権争いが形を変えてよみがえった。「中国の特色ある社会主義の道を堅持する。いかなる勢力も中国人民の前進の歩みを妨げることはできない」。中国の習近平国家主席は共産党の1党独裁体制や異質な国家資本主義を貫きながら、世界に冠たる強国への道をまい進しようとする。

 ロシアも息を吹き返した。法の支配や言論の自由をないがしろにし、既存の国際秩序に挑むウラジーミル・プーチン大統領は「自由主義は廃れた」と言い放つ。中ロのような権威主義国家の蘇生が、かつての「東側」と似たような冷気を放っているのは間違いない。

 より深刻なのはポピュリズム(大衆迎合主義)にむしばまれる民主主義国家である。世界の盟主たる米国は異端児のドナルド・トランプ大統領の下で変質し、自国第1の内向きな経済・外交政策や強権的な政治に傾斜する。そのさまを米マサチューセッツ工科大学(MIT)のバリー・ポーゼン教授は「非自由主義的な覇権(Illiberal Hegemony)」と評した。

 欧州では移民・難民の流入や欧州連合(EU)の官僚政治をやり玉にあげる右派のポピュリズムがはびこり、中南米では弱者へのばらまきに走る左派のポピュリズムが幅を利かす。憂慮すべき事態と言わざるを得ない。

  「西側の消失(Westlessness)」――。世界各国の首脳や閣僚ら100人以上が一堂に会し、2020年2月にドイツで開いたミュンヘン安全保障会議のテーマがこれだった。かつての「西側」が自滅状態に陥り、民主主義や自由経済の存立が脅かされる世界を、さすがのチャーチルも想定していなかったのではないか。

 そして新型コロナウイルスのまん延である。中国発の疫病は瞬く間に世界に広がり、未曽有の危機をもたらした。ヒトやモノの流れを管理する感染防止策と、個人や企業の窮状を救う経済支援策がともに必要なのに、民主主義国家は権威主義国家よりも意思決定に時間がかかり、大胆な対応もとりにくい。コロナ・ショックが「西側」に新たな試練を与えたと言える。

世界の民主主義指数、過去最低の水準に

権威主義国家の伸長と民主主義国家の劣化が相まって、世界の民主化や自由化が後退しているのは明らかだ。英調査機関エコノミスト・インテリジェンス・ユニットが算出した世界167カ国・地域の2019年の民主主義指数は平均5・44となり、この数値の公表を始めた2006年以降の最低を記録した。

 世界195カ国を対象とした米人権団体フリーダムハウスの調査も、傾向は同じである。2018年時点で自由な国家は44%、部分的に自由な国家は30%にとどまり、2008年のそれぞれ46%、32%を下回った。

 「古い悪魔がよみがえりつつある」。エマニュエル・マクロン仏大統領は偏狭なナショナリズムの台頭にあらがえず、2度の世界大戦を招いた時代に近い空気を感じ取る。実際、米有力ヘッジファンドのブリッジウォーター・アソシエイツを率いるレイ・ダリオ氏らが2017年にまとめたリポートでは、先進国のポピュリズム指数が1930年代の水準まで上昇していた。権威主義国家どころか民主主義国家までが、同じ過ちを繰り返しかねない状況だ。

寛容と自制、弱まる「ガードレール」の力

問題はクラティア(権力)の歪みだけではない。むしろデモス(民衆)の緩みの方が危ういようにも見える。

 「選挙を通して生まれた独裁体制の悲しいパラドックスは、〝民主主義の暗殺者〟が、民主主義の制度そのものを使って――徐々に、さりげなく、そして合法的に――民主主義を殺そうとするということだ」。米ハーバード大学のスティーブン・レビツキー教授とダニエル・ジブラット教授は共著「民主主義の死に方」で、民主主義の死は選挙から始まると警告した。扇動的なポピュリストが民意の後押しを根拠に自らの正当性を誇示し、法やルール、人権などを踏みにじる政治を強行しているのは確かだろう。

 同時にレビツキー氏らは民衆に根づく「寛容」と「自制」の力にも注目する。民主主義の「柔らかいガードレール」として機能し、分断政治への防波堤を築いてきた2つの規範が弱まっていると説いたのだ。

 日本人で初めて米エール大学の教授を務め、米国との開戦に突き進む祖国に警鐘を鳴らし続けた歴史学者の朝河貫一にも、これに通じる思いがあったという。日米欧が第2次世界大戦を回避できなかったのは、民衆が責任感や道義心、寛容の精神を失い、民主主義の地盤が緩んだのが一因と見ていた。

民衆を駆り立てる格差や移民への不満

いまの民衆はなぜ寛容と自制の規範を保てなくなっているのか。背景には4つの要因があるように思う。

 第1の問題は経済格差の拡大だ。国際非政府組織オックスファムの報告では、世界の上位2153人の富豪が2019年時点で下位46億人の庶民の合計よりも多くの資産を保有していた。スイスの金融大手クレディ・スイスによると、世界の上位1%の高所得層が抱える資産は45%を占めるのに対し、下位50%の低中所得層は1%にも満たない。

 グローバル化やIT(情報技術)化の進展は勝者と敗者、持つ者と持たざる者の2極化を促した。そこに政治の不作為や金融危機の打撃も重なり、置き去りにされた人々の悩みが深まったと言える。

 第2の問題は人種間のあつれきである。米欧への移民・難民の流入は、労働者や起業家の増加といった恩恵をもたらす。だが非白人に対する白人の経済的・文化的な反感を誘発し、差別や偏見を助長するのは否めない。

 「人種主義も憎しみも毒薬だ。この毒薬は私たちの社会の中にある」。アンゲラ・メルケル独首相は排外的な極右思想の広がりやヘイトクライム(憎悪犯罪)の多発に強い懸念を表明する。

若者のいら立ち映す「オーケー、ブーマー」

第3の問題はエリートによる政治の支配だ。国際調査機関のイプソスが世界27カ国の国民に聞いたところ、既存の政治が自分たちのような一般人を無視しているとの回答が66%に上った。

 少数の富裕層、大企業、圧力団体が巨額の献金で為政者を動かし、立法や行政を意のままに操る。多数の民衆の声はいっこうに届かず、ただ忘れ去られていく。こうした政治の矛盾に憤る民意が世界中に存在する。

 第4の問題は世代間の対立である。「オーケー、ブーマー(OK Boomer)」――。米国ではそんなせりふが若者の間で流行する。ベビーブーマー世代(1946~1964年生まれ)を代表とする中高年層に対し、ミレニアル世代(1981~1996年生まれ)やポストミレニアル世代(1997年生まれ以降)が「もうたくさんだ」と言いたい時に使うらしい。

 不平等な経済や政治の機能不全を放置し、次の世代に大きなツケを残してきたにもかかわらず、「最近の若者は」と説教したがる中高年層に愛想を尽かした結果だ。地球温暖化の進行を見過ごす大人たちの不作為をなじったスウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリさんにも共通する思いだろう。

 経済、人種、政治、世代の「4つの分断」が臨界点を超え、不満や怒りをため込む低中所得層、白人、非エリート、若者が極端な主張になびく。そこに民主主義の真の病が巣くっているような気がしてならない。

民主主義の岩盤固める地道な努力を

世界は民主主義の緩みをただせるのだろうか。グローバル化やIT化の果実を享受できず、既存の政治に見放されてきた民衆の感情を解きほぐすのは難しい。しかし貿易・移民を敵視する右派のポピュリズムや、富裕層・大企業を攻撃する左派のポピュリズムにすがっても、根本的な問題の解決につながるとは思えない。地味でも堅実な成長戦略の実行や所得再分配の見直し、安全網の拡充、政治資金の改革などに取り組み、民主主義の地盤の緩みを少しでも食い止める必要がある。

 全米民主主義基金(NED)のカール・ガーシュマン会長がワシントンのオフィスでこう話していた。「民主主義は草の根の大衆が支える制度だ。学習を通じて進化する制度でもある。だからこそ幅広い階層に民主主義の恩恵や弱点、もろさを学ばせたい」

 全体主義の悪夢を忘れがちな人々や、権威主義への誘惑を断ち切れない人々に、民主主義の尊さを粘り強く説き続けなければなるまい。コロナ・ショックで民主主義国家の真価が問われているいまだからこそ、怠れない努力でもある。私たち自身が「良きデモス」であり続けることが、「健全なクラティア」を導く最善の道だと信じたい。

参考文献

小竹洋之『迷走する超大国アメリカ』(日本経済新聞出版社、2019年)

スティーブン・レビツキー、ダニエル・ジブラット『民主主義の死に方~二極化する政治が招く独裁への道』(濱野大道訳、新潮社、2018年)

バーナード・クリック『デモクラシー』(添谷育志・金田耕一訳、岩波書店、2004年)

Barry R. Posen, “The Rise of Illiberal Hegemony: Trump’s Surprising Grand Strategy,” Foreign Affairs, 2018.

Credit Suisse, “Global Wealth Report 2019,” 2019.

Freedom House, “Freedom in the World 2019: Democracy in Retreat,” 2019.

Ipsos, “Populist and Nativist Sentiment in 2019: A 27-Country Survey,” 2019.

Oxfam, “Time to Care: Unpaid and Underpaid Care Work and the Global Inequality Crisis,” 2020.

Ray Dalio, Steven Kryger, Jason Rogers and Gardner Davis, “Populism: The Phenomenon,” Bridgewater Associates, LP, 2017.

The Economist Intelligence Unit, “Democracy Index 2019: A Year of Democratic Setbacks and Popular Protest,” 2020.

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