エッセイ

竜を退治しようとするものは、自分が竜にならないようにしなくてはならない

新型コロナウイルスの感染が世界的に拡大し、そのインパクトの大きさが人々を震撼させるなか、「パンデミックをどう終息させるか」の議論と並行して、「コロナ終息後の世界はどのような世界になるのか」を問う議論が世界中で沸騰している。ある者は「脱グローバリゼーションの加速」を予測し、またある者は「自国第一主義の時代の到来」を予測する。そのなかでも有力なのが、「欧米諸国の自由民主主義体制と中国・ロシア等の権威主義体制の体制間競争」の激化を予測する声である。

確かに、コロナ禍を契機として、「両陣営」を代表する米中の対立は激化の一途を辿っている。ウイルスの発生源を巡る両国の舌戦は加熱しているし、アメリカは世界保健機関(WHO)が「中国寄り」だと批判して資金拠出を一時停止した。中国は、国内の感染拡大防止に忙殺されて身動きが取れない欧米諸国をあざ笑うかのように、「健康シルクロード」構想のもと、127カ国および4つの国際機関にマスクや防護服、ウイルス検査キットを供与したり医療チームを派遣する「マスク外交」を展開している。ロシアも負けじと、旧ソ連諸国のみならず、イタリアやセルビア等の欧州諸国やアメリカにまで迅速な人道支援を実施している。こうした「微笑み外交(charm offensive)」は、中国やロシアが、コロナ禍のような危機対応における権威主義体制の優位性を誇示しようとしている証拠だと理解されている。欧米諸国側でも、中国のような「ビッグデータ権威主義」の有効性への信頼が向上し、「中国が勝者、アメリカが敗者」だと見えるようになるかもしれないと予測する声も上がりはじめている。これを受けて、アメリカでは、コロナ禍で中国の脅威が明白になった今こそアメリカは自由民主主義を守るために立ち上がるべきであり、民主化支援を強化して同盟国の民主的制度の強靭性を確保すべきだという見解が勢いを増している。

しかし、今のような重大な危機のさなかであるからこそ、性急に結論を急がず、熟議を重ねて、「コロナ後の世界」をコロナ前の世界よりも良い世界にする(BBB: Build Back Better)ため、「何をなすべきか(何をすべきでないか)」を考えるべきだと思う。まず、新型コロナウイルスの感染拡大を抑止するという喫緊の課題への対処において、権威主義と民主主義のどちらが優れているかを示す証拠は(少なくともこれまでのところ)ない。確かに中国は、武漢でこそ対応に失敗したものの、その後は都市封鎖などの強権的措置によって全国的な感染拡大防止に成功した(ように見える)。しかし権威主義国家であるイランは対応に失敗しているし、早期に国境閉鎖等の対応を開始していたロシアでも4月中旬になって感染が急速に拡大している。一方の自由民主主義諸国においても、アメリカやイタリア、スペインでは多数の死者を出しているが、台湾や韓国はウイルスの封じ込めに成功していると評価されている。このことからすれば、新型コロナウイルス感染拡大防止の成否は、単に政治体制の相違によるものではなく、医療体制の充実度、市民が政府に寄せる信頼の程度やトップリーダーの資質、2002~03年の重症急性呼吸器症候群(SARS)の流行の教訓に学んでいたか否か、政府が国民の行動を監視する基礎となるデジタル・インフラの整備度合いなど、極めて多数の要因が複雑に絡み合っていると見るべきであろう。

さらに、コロナ対策の成否のみを基準として政治体制の優劣を論じる短絡的な風潮は、「コロナ後の世界」における自由民主主義体制の将来にとって危険である点も指摘しておかなければならない。もちろん、疫病から国民の生命を守ることは政府の最も重要な責務であることは論を俟たない。しかし、今回のコロナ禍で明白になったのは、効果的な感染拡大防止措置が自由民主主義の諸価値にとっての重大な脅威となることである。そして、そうした脅威が一時的なものにとどまらず、「コロナ後」においても常態化し、ひいては自由民主主義体制そのものを危殆に瀕せしめてしまう危険があることである。

まず、ウイルス封じ込めに伴う人権制約は、移動・集会の自由のみならず、教育を受ける権利や宗教活動の自由、経済活動の自由(社会的弱者にとっては生存権に直結する)など、極めて広範に及ぶことが明白になった。外出禁止令などの強制措置を執行する警察や軍による人権侵害も横行している。例えば南アフリカ共和国では外出禁止措置を履行する軍や警察による暴力が横行し、死者まで出ている(アパルトヘイト時代に白人警察が使っていた装甲車から降りた黒人警官が、かつての黒人居住区で、貧困のゆえに稼ぎに出ざるを得ない貧困層の黒人を殴打している映像には心が痛む)。心配なのは、多くの民主主義国においてこうした人権制約を憂慮する声は弱く、野党やメディア、そして大多数の国民が「政府の断固たる措置」を要求していることである。市民の間に相互監視の風潮が高まったり、少数者に対する差別・暴力が頻発していることも憂慮される。例えばインドでは外出禁止のなかで商売を続けるムスリムの露天商に対する暴力事件が頻発している。上記の傾向はいずれも、「コロナ後」に「正常への復帰(return to normalcy)」が行われずに「異常事態」が常態化してしまい、気が付いてみれば権威主義体制とさほど変わらないような抑圧的で人権が顧みられない社会になってしまうという事態を招く危険に直結している。

自由民主主義の長所(権威主義に対する比較優位)は、政府も市民も判断を誤るかもしれないという大前提に立ち、立憲主義に基づいて立法・行政府に対するチェックアンドバランスを働かせうることである。コロナ禍のような危機の際には、政府が科学的知見に基づいた必要最小限度で透明性のある政策を実施しているかを常にチェックにすることが特に重要である。熟議と試行錯誤を繰り返しながらも、国民の生命と自由、経済を守る政策を実現することこそが、権威主義に対する自由民主主義の優位性の何よりもの証拠となるはずである。「竜を退治しようとして気付いてみれば自分が竜になっていた」ということのないようにしなければならない。

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