民主主義の最大の敵は人々の恐怖と不安ではないかと思われる。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)がもたらした世界の恐怖と不安は、そのまま民主主義に対する挑戦として位置づけられる。
第一次世界大戦後のドイツに出現したワイマール共和国において、民主主義が根付かず最終的に国民の代表機関である国会が政府を選出できなくなり、大統領がヒットラーを首相に任命し、独裁政府が合法的に成立した事はそれほど遠くない昔である。その際、それを強く支持したのは、本来民主主義の源である国民であり、ポピュリズムと民族主義に狂乱した国民による支持だったのである。
民主主義の維持には、それを守る制度としての参政権、報道の自由を含む表現の自由、その前提としての思想・信条の自由のような「人権」に対する深い尊重の念が必要である。それを尊重しない国民がいるのであれば、そこから民主主義の危機が始まる。
ギリシャの都市国家から様々な変容を遂げて築き上げてきた民主主義ではあるが、それ自体脆弱な制度である。その理由は、それを支える市民の考え方次第だという点である。今回のCOVID-19との戦いについても、市民社会が、その特性である良心と理性により、人権に対する深い尊重の念を維持し、ポピュリズムや全体主義の方がウイルスとの戦いには有効であるといった考え方を寄せ付けない力強い集団を維持していくことが大切であると考える。
民主主義を活かすも殺すも私たち市民社会(注)なのである。
(1) 階級や富による特権に基づき制度的に区別された人民ではなく、一般的な人民である。
(2) 参政権を中心とした権利を認知し政府や経済界に対して抑制的かつ監督的な作用を自立的に行使することができる人々である。
(3) 必ずしも国家を前提とする国民である必要はない。
参政権を中心とした人権を認知し政府や経済界に対して抑制的かつ監督的な作用を自立的に行使することができるという点では、教育やある程度の経済的基盤も必要であり、事実上全ての一般的市民を包含するわけではないが、限定することはしないでおく。
もう一つの課題として検討する必要がある事項として、市民社会の中に、「公益」のためには一定の人権制約も許容されるという議論があることである。日本国憲法13条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、『公共の福祉に反しない限り』、立法その他国政のうえで、最大の尊重を必要とする。」(二重鍵括弧は筆者挿入)と規定していることも理由の一つとされる場合がある。
今回のCOVID-19の蔓延防止のために、多くの政府が外出制限や施設の使用強制を国民に課している(フランス、イタリア等は罰則付きで外出制限を課している)。また、市民社会自身が、十分に精査することなく移動の自由、居住の自由や財産権の保障という基本的人権を制限すること自ら認めるリスクを感じる。
国際人権規約(自由権規約)4条では、非常事態における人権制約とその範囲を規定し、「国民の生存を脅かす公の緊急事態の場合」に「事態の緊急性が真に必要とする限度において」(to the extent strictly required by the emergencies of the situation)、規約に基づく義務に違反する措置をとることができると規定している。ただし、このような真の必要性の要件の他にも、締約国が国際法に基づく他の義務に抵触してはならず、また人種、皮膚の色、性、言語、宗教又は社会的出身のみを理由とする差別を含んではならないと規定し、さらに手続として他の締約国への通知を要件としている。また、そのような場合でも、表現の自由、集会・結社の自由、公正な裁判を受ける権利は制約することができるとしつつ、生命に対する権利や拷問禁止、思想・良心・宗教の自由等については侵害してはならないとしている。
さらに、COVID-19の関係では、新型インフルエンザ等対策特別措置法の解釈で対応しようという議論や災害対策基本法やその他の災害対策関連法制を利用し法律を拡大解釈することで対応しようという意見もある。しかし、本来法律の解釈は立法事実に基づく立法者の意思の範囲において許されるべきことであり、政府がそれを越えて拡大した解釈をすべきではない。迅速性を念頭に置いて、立法による対応を急ぐことで対処すべきではないだろうか。
民主主義の基本は多数決であるが、市民社会は、少数者の人権を多数決で制限することに対する躊躇さを常に良心をもって自覚することが肝心である。「公益」という名のもとに、内容的にも手続的にも十分な精査をすることなく人権を制限することがないように、市民社会に慎重さがなければ、市民社会の自己否定ともなりかねない。
(注)本稿で「市民」の要素として以下の点を前提にする。